2022年6月、コロナ禍の自粛ムードが広がる中、私の耳に一筋の光が差し込んだ。日本政府が帰国者の自宅隔離を免除し、同時にタイ政府が日本からの観光客を再び受け入れることを発表したのだ。かねてから行きたかったラオスに向けて、タイ経由で訪問できる好機であった。格安旅行サイトで日本・バンコク往復24000円ほどの安価な航空券を見つけたが、この価格の低さには裏があった。往復ともに深夜にシンガポールで12時間ほどの乗り継ぎがあるというのだ。深夜のシンガポール観光も悪くないだろうと軽く考えた私は、やや楽観的ではあるが、迷うことなく航空券を予約した。
目次
- 人影の見えない関西空港
- シンガポール到着、香港路にて投宿
- 杜撰な予約管理
- 翌朝の別れ
人影の見えない関西空港
当時、日本政府の隔離免除政策はまだ広く知られておらず、航空券の購入について友人に話すと、私を見る目は驚きと疑問に変化した。コロナ禍後の海外旅行はまだまだ珍しく、私自身も航空券を手にするまでは楽観的であったが、出発までの期間には少しの不安も感じていた。
時は2024年9月24日、コロナ禍真っ只中の関西国際空港に到着した私は、かつての賑やかさとは対照的な寂しさに苛まれた。出発カウンターは人の気配を感じさせず、そそくさと12時を回る頃には搭乗口に到着したものの、待つ客はまばらであった。当然制限エリア内のラウンジも営業しておらず、閉ざされていた。結局、機内の私の隣に座る人もなく、3席を独り占めしてシンガポールへの6時間の空旅を過ごした。



シンガポール到着、香港路にて投宿
シンガポール・チャンギ空港に到着したのは現地時刻18:00頃だった。関西空港とは違い、チャンギ空港は多くの人で溢れかえっていた。無人運転のシャトルを利用しなければ移動できないほどターミナルは広大だが、英語の案内看板が多く掲げられており、観光客にとってはとても利便性の高い空港だと感じた。通常は乗り継ぎの際に航空券が一括して発券されるが、今回は格安航空券を個別に手配していたため、一度入国してから再度チェックイン・出国する必要があった。そのため、空港での宿泊ではなく、市内のドミトリーに泊まることに決めていた。(もっとも、乗り継ぎの12時間は空港の中だけで過ごすには長すぎる。)

友人から聞いた話によれば、シンガポールは物価が高く、宿泊費用は東京以上だという。そのため前日に、格安宿泊予約サイトを利用して香港路のドミトリーを予約しておいた。香港路という立地を選んだのは、名前から察するに中華系の人々が多く、普通話やアジア英語が通じると思われたためである。また、シンガポールを訪れるなら、少なくともマーライオンを見学するのが一つの楽しみだろう。ただし、チャンギ空港への到着は18時頃であり、マーライオンが水を吐き出すのは22時までと決まっていた。短い時間で観光を楽しむためには、マーライオンに近い宿泊先が必要だった。(また、海外で一人で夜道を歩くのはなるべく避けたいと思っていた)このため、位置的にも民族的にも親和性の高そうな香港路にドミトリーを予約していた。チャンギ空港の中を散策する限り、シンガポールは欧米系の人種割合が高く、総じて自分よりも体格が大きい。香港路を選んでおいて正解だったかな、と直感した。入国審査は順調で、わずか30分ほどで入国手続きが完了した。香港路のドミトリーへ向かうべく、急ぎ足で地下鉄駅にむかった。
地下鉄のコンコースに足を踏み入れた私は、切符販売機と思しき機械が見当たらないことに気付いた。目の前には、プリペイドカードへのチャージ専用機のような機械がずらりと並んでいるばかりだ。切符を買えなければ、地下鉄に乗ることもできず、ドミトリーへの道も閉ざされる。マーライオンの営業時間が迫る中、私は前に並んでいる女性2人組に切符の買い方を尋ねることにした。女性の二人組はこうした場面で声をかけやすい。女性1人だとナンパや犯罪などを警戒される可能性がある。旅先の地元住民に不安を与えるのは旅人として本意ではない。一方、男性だと客引きやチップ要求の可能性が高くなる。こういった理由から、道を聞く際に女性二人組というのは好都合である。私はヒジャブを被った女性とアジア人女性の二人組に声をかけ、切符の購入方法を尋ねた。そして、彼女たちから意外な答えが返ってきた。
「切符を買うには友人窓口に行く必要があるわ。あなたVISAカードは持ってないの?」
シンガポールの地下鉄ではVISAのタッチ決済が可能であり、クレジットカードを持つ人は切符を買う必要がないとのことだった。海外旅行というのは持ちつ持たれつ、人を助け、人に助けられながら進めるものであると改めて感じながら香港路に向かった。

杜撰な予約管理
香港路には、予想通り、中華系の人々が多く集まる街らしい雰囲気が漂っていた。ビルの1階には、燕窩や他の広東料理の店が並んでおり、その看板が目についた。燕窩とは、燕の巣のことであり、広東料理では高級食材として重宝されている。同じ人種の街を見つけたという安堵感を抱きつつ香港路を歩み、ついに予約していた宿に到着した。到着したのは19:00頃だった。

宿は細長い敷地の背の高いビルに入居しており、入り口は1階にあるものの、中に入るとすぐに階段があり、ロビーは2階にあった。宿泊部屋自体は3階と4階にまたがっているような構造だった。宿の入り口には「FULLY BOOKED」と書かれた紙が貼られていた。予約した自分も一抹の不安を覚えつつ受付の2階に上がった。スタッフはすでに退勤しており、受付には人がいない様子だった。予約者のリストが卓上に置かれており、各予約者に対応したロッカーの鍵が氏名の上に置かれていた。各自自分の名前を見つけてロッカーのカギを取っていけ、という意味らしい。自分の名前をリストから見つけ、安堵のため息をつきながら周囲を見渡した。共用スペースは受付の隣にあり、最低限の設備はあるものの、2人掛けの椅子が数脚置かれているだけの簡素なものだった。20代前半と見られる小柄なアジア系の男性2人が、他人同士のように離れて座っていた。

共用スペースの人達に話しかける用もなかったため、自分のフロアに上がろうとしたところ、一人のアジア系女性がやや焦った様子で英語で話しかけてきた。ここはシンガポールの香港路。中国人なら普通話か広東語で話しかけてくるのが普通だろうと思った。彼女の英語は流暢だったため言葉からは推測できなかったが、ふと日本人なのではないかと思い、出身を尋ねた。やはり「JAPAN」と答えが返ってきた。複雑な事態に直面すると、母国語である日本語が頼りになる。彼女と交えたいくつかの会話から、彼女も私と同じ宿を予約したが、予約者リストに名前が見当たらず、ロッカーやベッドもアサインされていないという状況を知った。宿のスタッフに問い合わせようとしても、皆退勤しており、受付には一人もいない。入口には「満室」と書かれており、ますます不安が募る。周囲の共用スペースに座っていた男性2人にも、スタッフらしき人は見たか聞いたものの、良い情報は得られなかった。

そんな時、新たな客が現れた。彼は180cm前後の大柄な男性で、中東系の風貌をしていた。彼も受付卓上の予約者リストを見ると、表情が一変した。彼はジョーダン出身のバックパッカーらしい。彼もまた、私と同じ宿を予約したはずだが、リストに名前がないことに驚いていた。共用スペースには小さな騒ぎを聞きつけた野次馬として、韓国人2人と中国人2人がたむろしていた。
受付の周りに手がかりを探してみると、緊急時の連絡先として宿のオーナーと思われる人の電話番号が記された紙を見つけた。絶望的な状況に、藁にもすがる思いで電話をかけたが、つながらない。かつてタイで経験した出来事を思い出した。通常の電話では繋がらなくても、WhatsApp Callならば同じ番号に繋がることがあった。そのアイデアに従い、WhatsAppから電話をかけると、幸運にも男性に繋がった。男性に状況を話すと5分ほどで駆けつけてきてくれ、二人分のベッドとロッカーが準備された。「満室」と書かれてあったのはどういう意味だったのか不思議に思いながら、安堵のため息をついた。
彼女らが荷物をロッカーに預けた、一息ついた後、これまでの騒ぎでいささか延期していたマーライオン観光に出かけることにした。たった今貸しをつくった彼女にも付き合ってもらうことにした。(シンガポールの観光は全くしていない、とのことだったので好都合であった。喜んでついてきてくれた)
道中、いくつかの会話を交わすうちに、彼女が中東に留学中の友人を訪ね、その後チャンギを経由して帰国途中であることがわかった。海外は初めてであり、現地では留学仲間が世話を焼いてくれたため、何もかもがスムーズに運んだとのことだった。さらに、私と同じく翌朝07:00頃の早朝便で日本へ戻る(私はバンコクへ発つ)とのことだった。シンガポールの地下鉄の運行は05:00からであり、それまで待ってから空港へ向かうと07:00の便には間に合わない旨を彼女に伝えると、驚いた様子の返答があった。そこで、04:30にグラブタクシーを手配して待機させ、一緒に空港へ向かうことを約束した。宿に帰ったのち、コンビニで買った夕食を共同で食べ、それぞれの寝床へと就いた。切符購入の際は地元の人に助けられ、またドミトリーで他の人に手を差し伸べるという、持ちつ持たれつ、といった形で旅が始まった。これからのタイ・ラオス訪問ではどんな出来事が待っているのか、眠りに就きながら考えを巡らせた。

翌朝の別れ
朝4時30分、約束通りのグラブタクシーが宿の前で待機していた。道中渋滞はなく無事に空港に到着し、チェックイン手続きを終えた後、私たちは朝食を取る場所を探し始めた。

しかし、コロナ禍のチャンギ空港では早朝に営業しているのはインド料理屋だけのようだった。洋食や中華料理をあきらめ、私たちはインド人に混ざって香り豊かなカレーで朝を迎えることにした。

その後、彼女と再び日本で再会することを約束し、彼女は日本へ、私はバンコクへ発った。

コメント